1. はじめに
本日、大相撲横綱・稀勢の里関が引退を発表しました。
稀勢の里関本人にとって、苦渋の決断だったでしょう…。
人生を歩んでいく中で成功するときもあれば失敗するときもあります。
今回は「成功」「失敗」について考えていきましょう。
2. 社会は厳しい批判が飛び交うところ
稀勢の里関が本日引退しましたが、数日前から引退報道が後を絶ちませんでした。
土俵に立った昨日まで、先場所から含め8連敗を喫したことから、今朝の新聞でも「引退」の文字がちらついていたのです。
連日の報道を見ていても、コメンテーターが耳を塞ぎたくなるような厳しい批判をくり返していました。
そこでいつも思うことがあるのです。
批判しているコメンテーターは本物なのかと。
人はその人と同じ経験をしなければ他者の立場になれない
稀勢の里関は、2017年大阪春場所で、ケガをしながらも優勝を果たしましたが、その後もケガが回復することなく、本調子になることはなかったそうです。
ケガをしているという事実は、報道では流されていますが、どれだけの痛みをともなうケガなのかは、本人にしか知り得ません。
ケガも病状も、本人の口から説明されたとしても、第三者には伝わらないことが多いのです。
プロスポーツ選手として、ケガでも病気でも結果を残すのがプロだという見方があり、それは確かに間違いではありません。
しかし本人の苦痛が理解できる人ほど、厳しい批判するのではなく、後押しするようなコメントをするべきでしょう。
人は、その人と同じ経験をしなければ、その人の立場は分からないのです。
でも、その人の立場や心境を考えることはできるのではないでしょうか。
批判している人は本物なのか??
連日の稀勢の里関の報道を見ていると、たくさんの人が稀勢の里関に対するコメントをしています。
「もう稀勢の里は限界でしょう」
「稀勢の里はとっく限界だった」
「もう引退したほうがいい」
「強い横綱ではなかったな」
このネガティブなコメントに追い打ちをかけるように、スポーツ新聞では「稀勢の里引退秒読み」といったタイトルが一面を飾っていました。
ファンが稀勢の里を応援するばかりに、ネガティブなコメントをするのはさておいて、メディアに出ている人のコメントを聞くと違和感を覚えます。
なぜなら、コメンテーターが相撲に精通している人ではないからです。
相撲協会では外部委員会というものが設置されているのですが、その委員の方々は相撲経験者とは限りません。
そのような人が毒舌を交えてコメントする姿をみていると、違和感を覚えませんか??
スポーツコメンテーターも、野球選手だった人が、野球以外のスポーツ選手を批判するのを耳にしますが、同じように違和感を覚えます。
そのときのコメントに限って、語尾が「~と思います」と断定・言い切りの形になっていないところをみると、自分の中でも言い切れないところがあることが窺えます。
日本国憲法には「言論の自由」や「表現の自由」が規定されていますので、思ったことを公言してもいいですが、稀勢の里も相撲に精通している方からの批判と、そうでない方からの批判では、聞こえが大きく異なるでしょう。
人は、第三者を批判することがありますが、口に出す前に、自分は第三者を批判できる立場であるのかを考えるくらいの余裕を持ちたいものです。
自分にベクトルを向ける余裕をもつ
人は、自分のことをさておいて、第三者を批判する傾向があります。
第三者にベクトルを向けることができても、自分にベクトルを向けることはなかなかできない。
人には強く批判するけれど、実は自分もきちんとできていないことが多々あります。
人は本来、自己中心的な動物ですので、相手を負かしてでも、自分は生き残ろうとするため、第三者を批判する姿も見受けられるのです。
第三者を批判する前に、自分はどうなのかと、自分にベクトルを向ける余裕が必要でしょう。
社会で起きている厳しい批判が飛び交う世の中ではなく、お互いを尊重しながら共生していくことが望ましい社会のあり方です。
感情をむき出しにして批判し合うのではなく、冷静に議論を深めていくことが求められます。
3. 人生の成功・失敗は死ぬ直前しか分からない
今回は、稀勢の里関の話題をあげていますが、稀勢の里関が引退することで、相撲人生が成功か失敗かは、稀勢の里関本人も分かることではありません。
みなさんもこれまでに失敗をしたことがあるでしょうし、成功したこともあるでしょう。
ただ「失敗」「成功」はその瞬時のものであって、長い人生全体の「失敗」「成功」ではありません。
私は家庭環境が良くない中で育ちましたが、周りの友人が裕福な生活を送っているのをみると、自分の人生は「失敗」だと感じたことがあります。
しかし家庭環境が良くなかったからこそ、家庭環境が良くない生徒の気持ちが分かりますし、経済的に困難な場合の対処や手続きの仕方を知ることができました。
そのような助言ができることで、生徒の役に立つことができるようになったため、昔は「失敗」と思っていたことが「成功」に変わったのです。
つまり普段「失敗」と思っていることは、長いスパンでみると失敗ではなく、成功に変わることが十分にあることが理解できます。
自分の命を落とさない失敗であれば、どんどん失敗するべきです。
失敗した人ほど、自分は間違いなく大きくなれますので、失敗を恐れず突き進んでいきましょう。
4. まとめ
今回は「成功」「失敗」について考えていきました。
稀勢の里関はケガに苦しみ、横綱として期間が短いですが、ケガにも耐え、メディアやコメンテーターからの批判にも耐え、辛い期間が長く続きました。
そんな稀勢の里関は、横綱だからといって決して高ぶらず、気品ある横綱でしたし、今回のケガや批判を糧に、人一倍大きくなれたのではないでしょうか。
この記事をお読みになった方は、自分が発言する前に、一度立ち止まる余裕をもつという意識が芽生えていただければ幸いです。
今後は、第三者を批判するのではなく、第三者のことを重んじて、言葉を選びながら声をかけられる人が増えることを願っています。
とくに教育現場では、教員・教師が、生徒にどのように声かけするかによって、生徒の感情が大きく左右されます。
余裕をもっている人は、自分が特定の分野に精通している「本物」であっても、必要以上に口を開くことはなく、第三者をフォローする程度にとどまるでしょう。
人生で数多くの失敗した人は、その時点では恥ずかしい思いをしたかもしれませんが、その失敗は一瞬の出来事で、長いスパンで考えると、そのときの失敗が糧になっているはず。
人生が成功なのか、失敗なのかを感じられるのは、死ぬ直前だけです。
それまでは失敗しても成功しても、全力で生きていくことが大切でしょう。
記事をお読みいただいて、新たな考え方をおもちいただければ光栄です。
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